FEEL THINK BLOG

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

隠し味とアレルギー

先日、ある食材を食べて体調不良になった。どうやらアレルギーらしい。アレルギーとは、本来なら無害であるはずの抗原に対する免疫反応によって引き起こされる疾患で、腹痛や吐き気、嘔吐、じんましんなど、さまざまな症状を引き起こす。ひどいときにはアナフィラキシー(全身性症状)を引き起こし命に関わることがある。

「食べる」という生きるために欠かせない行為を怯えながら行わななければならないのはとても辛いものだ。今日は3連休の初日だが、アレルギー持ちの人は旅行をするのも大変なのではないだろうか。

旅行をすれば食事は外食しかない。そうなると飲食店で出される料理に何が入っているかその都度確認しなければならない。ネットでは店で出された料理の隠し味にピーナッツが使われていて辛い思いをしたという話がよく出てくる。ファミリーレストランなどではアレルギー対策食が販売されているらしいが、どれも食欲の湧かない貧素な料理ばかりだ。

何年か前、27時間テレビという番組で司会の笑福亭鶴瓶にアレルギーであるサバ寿司を見せて笑いを取るという企画をやっていた。その演出にアレルギーの子供を持つ親が激怒したらしいが、今になってその気持ちがわかった気がする。人間というのは身勝手なもので、自分が同じ目にあわなければその人たちの苦しみがわからない。この企画を立てた人物もアレルギー体質ではなかったのだろう。

すべての事情を考慮して他人と接するのは難しいが、相手の嫌がることはできるだけしないようにしようと思う。

考えながら動ける人はいない

よく若い社員に対して、考えながら動けと説教をする先輩や上司がいるが、実際のところ考えながら動くのは不可能である。「考えるか」「動くか」のどちらかでしかない。それが秒単位か1日単位かの違いである。

私は一度考え始めると物事を深く追求するタイプである。そのため、この「切り替え」がうまくできない。取り組むべき課題について事前に考えておき、動くときには余計なことを考えないようにすることで今まで何とかやってきた。

ブログを書くときもそうだ。文章を書いている最中にいちいち考えていたら1つの文を書くだけで何分もかかってしまう。そのため、思いつくまま手を動かし、あとで内容を修正する方法で文章を書いている。

下手な考え休むに似たりというが、私は考えずにはいられない。この性格を何とかしたいと思っているが、今は良いアイデアが浮かばない。

小林幸子の適応力

演歌歌手の小林幸子が、スマホゲームのCMでゴスロリ姿になったそうだ。彼女の仕事に対する姿勢には頭が下がる。

彼女の歌唱力と知名度があれば、これまでのファン相手に歌うだけ生計を立てられるはずである。その地位に安住することなく新しいことに挑戦する姿は見ていて心地よい。

世の中には、彼女のことを「オタクに媚びる落ち目の歌手」と蔑む人がいるが、変なプライドを持たず、目の前の客を楽しませることに徹する彼女は真のエンターテイナーと言えるのではないだろうか。

もちろん、私は小林幸子ではないので、本人が現在の活動をどのように考えているかわからない。それでも私は彼女を見習い目の前の仕事を懸命にこなしたいと思う。

有益な情報のみで長文を書く方法

あるブログの書き込みを見て共感した。

anond.hatelabo.jp

これは、500文字以上の文章が書けなくて困っているという内容の記事だが、自分が書いたのではないかと錯覚するぐらい考え方が似ていた。事例や引用を多用すればいくらでも文章量を増やせることは知っているが、私も読む価値のない余計な文章を追加することに抵抗を感じてしまう。

レイザーラモンRGのネタに「歌舞伎あるある」というものがある。これは昔のヒット曲に乗せて「歌舞伎あるある 早く言いたい」を連呼し、最後に誰でも思いつくような「あるあるネタ」を披露するというものだ。余計な文章を追加する行為はこれに似ている。笑いとしては成立するが、何かの情報を求めサイトを訪れる人にとっては迷惑でしかない。

有益な情報のみで長文を書くには

では、どうすれば有益な情報のみで長文を書くことができるだろうか。考えられる方法は次の2つだ。

内包型

内包型とは、抽象度の高いテーマを見出しにし、そのテーマに内包する要素について一つずつ語る方法である。この方法を用いれば、「1要素500文字×要素数」で長文を書くことができる。

物語型

物語型とは、自分の身に起きた出来事や考えを物語形式で書く方法である。この方法を用いれば、出来事を具体的に説明することで無理なく長文を書くことができる。

さいごに

長文を書く方法がわかっていても実践するのは難しい。長文をスラスラ書けるようになるにはもう少し時間が必要だ。

【著作権】歪んだ権利意識

DeNAのキュレーション問題をきっかけにブログで生計を立てる人の間でコンテンツに対する権利意識が高まっている。

ところが、多くの人は著作権がどういうものかわかっていない。「なんとなく似ていると思った」というレベルで後発者(あとから現れた人)を犯罪者扱いし自分の権利を主張している。中には、著作物の要件を満たしていない、ありきたりな内容にまで著作権があるとし類似記事を書いた他人を批判する人もいる。

権利を主張するのは本人の勝手だ。言いたいことがあるなら言えばいいだろう。だが、著作権を主張するなら著作権法の基礎ぐらい勉強すべきである。彼らには他人を泥棒扱いすることがどういうことなのかよく考えてもらいたい。

このような歪んだ権利意識は社会に悪影響を及ぼす。「模倣はいけないこと」「格好悪いこと」といった風潮が生まれ、既存の情報を組み合わせ何かを生み出すクリエイターが批判の対象になる。その結果、誰も物を作らなくなり社会が衰退する。

無から有を生み出せる人間はいない。自然や神といった人知を超えた存在ならば可能かもしれないが、人間にそのようなことはできない。「オリジナリティー」の信奉者はその事実を認めるべきである。

他人が作ったコンテンツをコピーして不正に利益を得ている人がいるのは知っている。しかし、そのことと、既存の情報を利用して他の何かを生み出すことは同じではない。

コンテンツを作る側も、利用する側も、自分や他人に過剰な期待をするのはやめ冷静に行動してもらいたい。

「幸せ」と「不幸せ」の関係

SNSや掲示板などを見ていると、「幸せとは何か」と問いかける人がいる。その問いに対してやたらと難しい答えを返す人がいるが、結局のところ幸せとはそのとき生じた一過性の感情に過ぎない。

つまりは、何かをして、その人が「幸せだ」と感じれば幸せであり、「不幸せだ」と感じれば不幸せなのである。他人がどう思うかは関係ない。

では、幸せという「感情」を味わうにはどうすれば良いか。それにはまず不幸せになる必要がある。不幸せとは、日々の暮らしで不自由さや不満を感じ、心が満たされない状態のことである。

「不幸せ」になるのはそれほど難しくない。不自由なことや不満に思うことを探せば良いのである。あとはそこで見つけた不平不満を、何らかの方法によって解消すれば幸せを感じることができる。

よく「自分は生まれたときから今までずっと不幸だった」という人がいるが、その認識は間違えている。「幸せ」と「不幸せ」は不可分(密接に結びついて、分けることができない)の関係にあり、「幸せだけを感じる人」や「不幸だけを感じる人」はいないからだ。

もし、あなたが何かに苦しんでいるなら、悲劇の主人公を気取るのはやめ、不平不満を解消する方法を考えるべきだろう。それが幸せになるための最善の道である。

「知らないこと」をそのまま書く

ブログを書いていて気付いたことがある。「知らないこと」をそのまま書いても良いということだ。それは、「知らないことを知ったかぶって書く」ということではない。知らないことを「私は知らない」と言って書くのである。

たとえば、ここ数年、人工知能(AI)がブームになっているが、人工知能の専門家でない人間が、人工知能について語ってはいけないという決まりはない。「人工知能によって人間の職が奪われるという話を聞いて危機感を感じた」「人工知能の精度が上がるとターミネーターやマトリックスのようにコンピュータが世界を乗っ取るのではないか」など、知らないことは知らないなりに語ることができる。

知らないことを「知らない」と言うことに何の意味があるのかと思うかもしれないが、そのことが一つの情報になることがある。研究者や啓蒙活動をしている人からみればこうした一般の意見は貴重な情報である。また、同じことを考えている人がその記事を読めば共感して安心感を得られる。

ただの日記であればこのような心配をする必要はない。自分が書きたいことを自由に書けば良いからだ。しかし、ブログを書く以上、人に見てもらう必要がある。「知らないこと」について語るのはその目的を実現するための一つの方法である。