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「幸せ」と「不幸せ」の関係

学び

SNSや掲示板などを見ていると、「幸せとは何か」と問いかける人がいる。その問いに対してやたらと難しい答えを返す人がいるが、結局のところ幸せとはそのとき生じた一過性の感情に過ぎない。

つまりは、何かをして、その人が「幸せだ」と感じれば幸せであり、「不幸せだ」と感じれば不幸せなのである。他人がどう思うかは関係ない。

では、幸せという「感情」を味わうにはどうすれば良いか。それにはまず不幸せになる必要がある。不幸せとは、日々の暮らしで不自由さや不満を感じ、心が満たされない状態のことである。

「不幸せ」になるのはそれほど難しくない。不自由なことや不満に思うことを探せば良いのである。あとはそこで見つけた不平不満を、何らかの方法によって解消すれば幸せを感じることができる。

よく「自分は生まれたときから今までずっと不幸だった」という人がいるが、その認識は間違えている。「幸せ」と「不幸せ」は不可分(密接に結びついて、分けることができない)の関係にあり、「幸せだけを感じる人」や「不幸だけを感じる人」はいないからだ。

もし、あなたが何かに苦しんでいるなら、悲劇の主人公を気取るのはやめ、不平不満を解消する方法を考えるべきだろう。それが幸せになるための最善の道である。

「知らないこと」をそのまま書く

ブログ

ブログを書いていて気付いたことがある。「知らないこと」をそのまま書いても良いということだ。それは、「知らないことを知ったかぶって書く」ということではない。知らないことを「私は知らない」と言って書くのである。

たとえば、ここ数年、人工知能(AI)がブームになっているが、人工知能の専門家でない人間が、人工知能について語ってはいけないという決まりはない。「人工知能によって人間の職が奪われるという話を聞いて危機感を感じた」「人工知能の精度が上がるとターミネーターやマトリックスのようにコンピュータが世界を乗っ取るのではないか」など、知らないことは知らないなりに語ることができる。

知らないことを「知らない」と言うことに何の意味があるのかと思うかもしれないが、そのことが一つの情報になることがある。研究者や啓蒙活動をしている人からみればこうした一般の意見は貴重な情報である。また、同じことを考えている人がその記事を読めば共感して安心感を得られる。

ただの日記であればこのような心配をする必要はない。自分が書きたいことを自由に書けば良いからだ。しかし、ブログを書く以上、人に見てもらう必要がある。「知らないこと」について語るのはその目的を実現するための一つの方法である。

論理展開とは何か

ブログ

論理展開という言葉がある。文章術の本を読むと「伝わる文章を書くには論理展開が大切」と書かれていたり、Amazonのレビューや書評サイトをみると「この本は論理展開がメチャクチャで何を言ってるのかわからない」と言われたりする。ところが、どの文章をみても「論理展開とは何か」という問いに答えていない。

こういうときに頼るのが辞書だが「論理展開」の定義は載っていなかった。しかたなく「論理」と「展開」の意味をそれぞれ調べることにする。

論理
① 思考の形式・法則。議論や思考を進める道筋・論法。
② 認識対象の間に存在する脈絡・構造。

 

展開

① (次々と物事を)繰り広げること。また,広げて事が行われること。「面白い場面が―する」
② (順や筋を追って)発展すること。進展すること。また,発展させること。「主題を―する」「多様な外交を―する」
③ 目前に広がりあらわれること。「目の前に―する大パノラマ」
④ 軍隊で,密集した隊形から,散開した隊形になること。
⑤ 〘数〙単項式と多項式の積あるいは多項式と多項式の積の形の式を,分配法則を使って単項式の和の形にすること。 ↔因数分解一つの関数を級数の形に表すこと。多面体・柱体・錐体などの表面を切り開いて一平面上に広げること。

 出典:スーパー大辞林

この定義から考えると論理展開とは「情報を伝えるための手順」ということになる。要するに「起承転結」「序論 本論 結論」などの「型」のことだ。しかし、それは「論理の展開」ではなく「文章の展開」ではないか。もしくは「論の展開」だ。

論理といえば、演繹と帰納のことだ。「論理展開」などと言われると、すべての文章を演繹と帰納のルールで書かなければならないと思ってしまうが、そういうことではないらしい。

このような曖昧なことばで何かを説明するのはやめてほしいものだ。

ペットの擬人化に思うこと

社会

東京の八王子で祖父母の家に預けられていた生後10ヶ月の女の子が、室内で飼われていた4歳のオスのゴールデンレトリバーに頭を噛みつかれ死亡したというニュースを見た。

犬や猫などペットを飼っている人の中には動物を家族の一員ととらえ、人間と同じように扱うことがある。だが所詮、彼らはケモノだ。どれだけ躾けても、何かのきっかけで野生の本能が目覚めることがある。

私も動物好きだが、動物を人間と同じように扱ったことはない。時折見せる人間ような表情に愛くるしさを感じることはあるが、あくまでも犬は犬であり、猫は猫である。

動物を擬人化し始めたのはいつ頃だろうか、歴史を調べればおそらく神話の時代までさかのぼらなければならないだろう。今はアニメやゲームの影響が大きいと考えられる。彼らはディズニーのネズミや、くまのプーさん、ポケモンなどのキャラクターと本物の動物との区別がつかなくなっているようだ。

最近は、けものフレンズというアニメの影響でサーバルキャットが人気だ。この動物を飼う人はあまりいないだろうが、アニメと同じ感覚で接すれば痛い目に合うだろう。

何かの動物を飼っている人は今回の事故を教訓にペットとの付き合い方を考えてみてはどうだろうか。

批判やアドバイスを真に受けてはいけない

学び

世の中には批判やアドバイスをする人が多い。求めればいくらでも手に入る。ただし、それらはあくまで個人の意見であることを忘れてはならない。どれだけ説得力のある話でも、正しいとは限らないのである。

人は影響力のある人物の話を無批判に受け入れがちだ。私も、心ない人たちの批判に傷ついたり、不合理なアドバイスを鵜呑みにして失敗したことがある。

ところが、そのような経験をしても、また同じ失敗を繰り返してしまう。どうすればこの問題を解決できるか今はわからない。とりあえず自分を戒めるためこの記事を書くことにした。

テレビ朝日の「きりたんぽ」問題について考える

社会

テレビ朝日で「サヨナラ、きりたんぽ」というタイトルのドラマが放送されるらしい。その内容は、主人公の女性が自分を裏切った男性などを「成敗する」というもので、番組のサイトには、主人公の特徴を阿部定(戦前に交際していた男性の下腹部を切り取った女性)に例えた記述があったそうだ。

この出来事を知った秋田県は「秋田の特産品であるきりたんぽが不適切に扱われている」としてテレビ朝日に番組タイトルの変更を申し入れた。秋田県が怒るのは当然だ。長い期間をかけて育て上げたブランドイメージをバカ番組のために潰されてはかなわない。

テレビ局は、時々世間の感覚とズレたことをする。何日か前にフジテレビで「アナと雪の女王」が放送されたが、そのエンディングに、視聴者やテレビタレントを出演させて不評を買ったばかりだ。

彼らは、エンディングにテレビタレントを出演させることで、映画館やDVDとの差別化を図ったつもりなのだろうが、視聴者からすれば余計なお世話としか言いようがない。テレビで映画を観る人は、映画が見たいのであって、知らない子供やテレビタレントを見たいと思っていないからだ。

このような事は他にもある。私がテレビを見ていて中で一番不快に感じたのは東日本大震災のときに行われた震災チャリティー番組である。彼らは被災地を応援するとしてバカみたいな歌をつくり必要以上に騒いだかと思えば、悲壮感をただよわせ今にも泣き出しそうな雰囲気で視聴者を不安にさせたりしていた。

被災者が望むのは「普通の生活に戻ること」であり、励ましや同情ではない。ところが、「普通」では目立たないため、彼らは感情を煽る事をやめなかった。

ネットでは、テレビが嫌なら見なければ良いという意見を目にする事がある。その意見は正しい。実際、私は以前に比べテレビを見る機会が減った。きりたんぽの話もネットで流れてきたニュースを拾ったものだ。

世の中には、人生の貴重な時間を使って、つまらないテレビを見ては文句を言う人がいるそうだが、そういう人は一度テレビの電源を切って他の事をしてみると良いと思う。そうすれば気分が落ち着き、些細な事でイライラしなくなるだろう。

「伝える文章」と「見せる文章」

ブログ

ブログを書いていて気づいたことがある。文章には「伝える文章」と「見せる文章」があるということだ。

伝える文章とは、読者に自分の意思を伝えることを目的とした文章である。「説明 報告 紹介 主張 助言 提案」などがこれにあたる。一方、見せる文章とは、自分の意思を伝えることを目的としない内省的な文章である。「日記 評論 コラム エッセー」などがこれにあたる。

見せる文章は「常体」で書いた方が良い

私は今まで全ての文章を「敬体(です ます)」で書いてきた。その方が読みやすいと思ったからである。しかし、日記や評論などの内省的な文章に「敬体」は合わない。自分の考えや感情を他人に向けて語りかける行為はどう考えても不自然だ。

書籍や新聞、雑誌の記事をみても内省的な文章に敬体を使っている人はいない。例外として小学生の感想文があるが、成人した大人が同じことをすると幼稚な印象を与えてしまう。そのため、これから「見せる文章」を書くときは「常体(だ である)」を使うことにする。

できればこれまで書いた記事も常体に直したいが、それには膨大な時間がかかるため今はそのままにしておく。